人間はどうも、決まり事やルールが大好きなようです。確かにルールは私たちの行動を規定してくれますし、公正・公平で善いルールやガイドライン、法律なら何の問題もないのですが…。

特に「宗教」は伝統や、人間が作ったしきたりが大好きです。しかし聖書には、だましごとの哲学は人間の言い伝えによるものに過ぎないとあります(コロサイ人 2:8)。もちろんこれは誉め言葉ではありません!

旧約聖書で、神は人々をイエスに導くためにモーセの律法(聖書の巻頭の5書)を授けられました。律法を見れば、人間は神なしでは迷子も同然の罪深い存在であることがよくわかります。イエスは、この神の律法を成就するために来られました。

「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」 (マタイ 5:17)

イエスはモーセの律法の成就。そう、成就を望むなら、イエスを信じなければならないのです!「宗教家」たちは、何でも複雑に、わかりにくくしようとします。信仰に限った話ではありませんが、ルールをどんどん増やし、人々にそれを強制します。でも「宗教家」は、ルールを作って強要するだけで、自分たちはそれを全然守らないのです。イエスはこうした人たちは偽善者であると糾弾しました。

私たちが求めているのはルールや律法、言い伝え、伝統そのものではありません。ルールや言い伝えは、私たちの罪を明らかにし、イエスに導くものでなければ意味がありません。伝統は、私たちと神の真実の関係を示すものでなければ意味がありません。例えば洗礼を受けたり、聖体を拝領したり、病める者に手をあてて祈ったり、初穂(寄付)を捧げたり…こうしたしきたりは神を崇め、神との関係に気づかせてくれるものです。神のみもとでは、人間の作ったルールなど問題ではないのです。

「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」 (マタイ5:19)

イエスの時代、「宗教家」たちはモーセの律法の他にも様々な決まりを作っていました。人々は台所のスパイスにまで十分の一税をかけられ、安息日には箸の上げ下げもできず、あらゆる制約に縛られていました。このような「宗教家」は、不信者と何ら変わりはありません。自らの教えを守らない、偽善者です。

神が私たちに望まれることは、世界を明るく照らすことです。世界を人間が作ったしきたりでがんじがらめにすることではありません。無意味なルールは捨てて、みことばに集中しましょう。そうすれば神が私たちに何を大切にしてほしいと思っておられるかがわかります。世界を照らしましょう!

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」 (マタイ 5:16)

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