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2018年 06月 18日

ローマ 4

ローマ 4:1 それでは、肉《にく》による私たちの父《ふ》祖《そ》アブラハムの場《ば》合《あい》は、どうでしょうか。
ローマ 4:2 もしアブラハムが行《おこな》いによって義《ぎ》と認《みと》められたのなら、彼《かれ》は誇《ほこ》ることができます。しかし、神《かみ》の御《み》前《まえ》では、そうではありません。
ローマ 4:3 聖《せい》書《しょ》は何《なん》と言《い》っていますか。「それでアブラハムは神《かみ》を信《しん》じた。それが彼《かれ》の義《ぎ》とみなされた」とあります。
ローマ 4:4 働《はたら》く者《もの》の場《ば》合《あい》に、その報《ほう》酬《しゅう》は恵《めぐ》みでなくて、当《とう》然《ぜん》支《し》払《はら》うべきものとみなされます。
ローマ 4:5 何《なん》の働《はたら》きもない者《もの》が、不《ふ》敬《けい》虔《けん》な者《もの》を義《ぎ》と認《みと》めてくださる方《かた》を信《しん》じるなら、その信《しん》仰《こう》が義《ぎ》とみなされるのです。
ローマ 4:6 ダビデもまた、行《おこな》いとは別《べつ》の道《みち》で神《かみ》によって義《ぎ》と認《みと》められる人《ひと》の幸《さいわ》いを、こう言《い》っています。
ローマ 4:7 「不《ふ》法《ほう》を赦《ゆる》され、罪《つみ》をおおわれた人《ひと》たちは、幸《さいわ》いである。
ローマ 4:8 主《しゅ》が罪《つみ》を認《みと》めない人《ひと》は幸《さいわ》いである。」
ローマ 4:9 それでは、この幸《さいわ》いは、割《かつ》礼《れい》のある者《もの》にだけ与《あた》えられるのでしょうか。それとも、割《かつ》礼《れい》のない者《もの》にも与《あた》えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信《しん》仰《こう》が義《ぎ》とみなされた」と言《い》っていますが、
ローマ 4:10 どのようにして、その信《しん》仰《こう》が義《ぎ》とみなされたのでしょうか。割《かつ》礼《れい》を受《う》けてからでしょうか。まだ割《かつ》礼《れい》を受《う》けていないときにでしょうか。割《かつ》礼《れい》を受《う》けてからではなく、割《かつ》礼《れい》を受《う》けていないときにです。
ローマ 4:11 彼《かれ》は、割《かつ》礼《れい》を受《う》けていないとき信《しん》仰《こう》によって義《ぎ》と認《みと》められたことの証《しょう》印《いん》として、割《かつ》礼《れい》というしるしを受《う》けたのです。それは、彼《かれ》が、割《かつ》礼《れい》を受《う》けないままで信《しん》じて義《ぎ》と認《みと》められるすべての人《ひと》の父《ちち》となり、
ローマ 4:12 また割《かつ》礼《れい》のある者《もの》の父《ちち》となるためです。すなわち、割《かつ》礼《れい》を受《う》けているだけではなく、私たちの父《ちち》アブラハムが無《む》割《かつ》礼《れい》のときに持《も》った信《しん》仰《こう》の足《あし》跡《あと》に従《したが》って歩《あゆ》む者《もの》の父《ちち》となるためです。
ローマ 4:13 というのは、世《せ》界《かい》の相《そう》続《ぞく》人《にん》となるという約《やく》束《そく》が、アブラハムに、あるいはまた、その子《し》孫《そん》に与《あた》えられたのは、律《りっ》法《ぽう》によってではなく、信《しん》仰《こう》の義《ぎ》によったからです。
ローマ 4:14 もし律《りっ》法《ぽう》による者《もの》が相《そう》続《ぞく》人《にん》であるとするなら、信《しん》仰《こう》はむなしくなり、約《やく》束《そく》は無《む》効《こう》になってしまいます。
ローマ 4:15 律《りっ》法《ぽう》は怒《いか》りを招《まね》くものであり、律《りっ》法《ぽう》のないところには違《い》反《はん》もありません。
ローマ 4:16 そのようなわけで、世《せ》界《かい》の相《そう》続《ぞく》人《にん》となることは、信《しん》仰《こう》によるのです。それは、恵《めぐ》みによるためであり、こうして約《やく》束《そく》がすべての子《し》孫《そん》に、すなわち、律《りっ》法《ぽう》を持《も》っている人《ひと》々《びと》にだけでなく、アブラハムの信《しん》仰《こう》にならう人《ひと》々《びと》にも保《ほ》証《しょう》されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国《くに》の人《ひと》々《びと》の父《ちち》とした」と書《か》いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者《もの》の父《ちち》なのです。
ローマ 4:17 このことは、彼《かれ》が信《しん》じた神《かみ》、すなわち死《し》者《しゃ》を生《い》かし、無《な》いものを有《あ》るもののようにお呼《よ》びになる方《かた》の御《み》前《まえ》で、そうなのです。
ローマ 4:18 彼《かれ》は望《のぞ》みえないときに望《のぞ》みを抱《いだ》いて信《しん》じました。それは、「あなたの子《し》孫《そん》はこのようになる」と言《い》われていたとおりに、彼《かれ》があらゆる国《くに》の人《ひと》々《びと》の父《ちち》となるためでした。
ローマ 4:19 アブラハムは、およそ百歳《さい》になって、自《じ》分《ぶん》のからだが死《し》んだも同《どう》然《ぜん》であることと、サラの胎《たい》の死《し》んでいることとを認《みと》めても、その信《しん》仰《こう》は弱《よわ》りませんでした。
ローマ 4:20 彼《かれ》は、不《ふ》信《しん》仰《こう》によって神《かみ》の約《やく》束《そく》を疑《うたが》うようなことをせず、反《はん》対《たい》に、信《しん》仰《こう》がますます強《つよ》くなって、神《かみ》に栄《えい》光《こう》を帰《き》し、
ローマ 4:21 神《かみ》には約《やく》束《そく》されたことを成《じょう》就《じゅ》する力《ちから》があることを堅《か》く《た》信《しん》じました。
ローマ 4:22 だからこそ、それが彼《かれ》の義《ぎ》とみなされたのです。
ローマ 4:23 しかし、「彼《かれ》の義《ぎ》とみなされた」と書《か》いてあるのは、ただ彼《かれ》のためだけでなく、
ローマ 4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主《しゅ》イエスを死《し》者《しゃ》の中《なか》からよみがえらせた方《かた》を信《しん》じる私たちも、その信《しん》仰《こう》を義《ぎ》とみなされるのです。
ローマ 4:25 主《しゅ》イエスは、私たちの罪《つみ》のために死《し》に渡《わた》され、私たちが義《ぎ》と認《みと》められるために、よみがえられたからです。

2018年 06月 19日

ローマ 5

ローマ 5:1 ですから、信《しん》仰《こう》によって義《ぎ》と認《みと》められた私たちは、私たちの主《しゅ》イエス・キリストによって、神《かみ》との平《へい》和《わ》を持《も》っています。
ローマ 5:2 またキリストによって、いま私たちの立《た》っているこの恵《めぐ》みに信《しん》仰《こう》によって導《みちび》き入《い》れられた私たちは、神《かみ》の栄《えい》光《こう》を望《のぞ》んで大《おお》いに喜《よろこ》んでいます。
ローマ 5:3 そればかりではなく、患《かん》難《なん》さえも喜《よろこ》んでいます。それは、患《かん》難《なん》が忍《にん》耐《たい》を生《う》み出《だ》し、
ローマ 5:4 忍《にん》耐《たい》が練《ね》られた品《ひん》性《せい》を生《う》み出《だ》し、練《ね》られた品《ひん》性《せい》が希《き》望《ぼう》を生《う》み出《だ》すと知《し》っているからです。
ローマ 5:5 この希《き》望《ぼう》は失《しつ》望《ぼう》に終《お》わることがありません。なぜなら、私たちに与《あた》えられた聖《せい》霊《れい》によって、神《かみ》の愛《あい》が私たちの心《こころ》に注《そそ》がれているからです。
ローマ 5:6 私たちがまだ弱《よわ》かったとき、キリストは定《さだ》められた時《とき》に、不《ふ》敬《けい》虔《けん》な者《もの》のために死《し》んでくださいました。
ローマ 5:7 正《ただ》しい人《ひと》のためにでも死《し》ぬ人《ひと》はほとんどありません。情《なさ》け深《ぶか》い人《ひと》のためには、進《すす》んで死《し》ぬ人《ひと》があるいはいるでしょう。
ローマ 5:8 しかし私たちがまだ罪《つみ》人《びと》であったとき、キリストが私たちのために死《し》んでくださったことにより、神《かみ》は私たちに対《たい》するご自《じ》身《しん》の愛《あい》を明《あき》らかにしておられます。
ローマ 5:9 ですから、今《いま》すでにキリストの血《ち》によって義《ぎ》と認《みと》められた私たちが、彼《かれ》によって神《かみ》の怒《いか》りから救《すく》われるのは、なおさらのことです。
ローマ 5:10 もし敵《てき》であった私たちが、御《み》子《こ》の死《し》によって神《かみ》と和《わ》解《かい》させられたのなら、和《わ》解《かい》させられた私たちが、彼《かれ》のいのちによって救《すく》いにあずかるのは、なおさらのことです。
ローマ 5:11 そればかりでなく、私たちのために今《いま》や和《わ》解《かい》を成《な》り立《た》たせてくださった私たちの主《しゅ》イエス・キリストによって、私たちは神《かみ》を大《おお》いに喜《よろこ》んでいるのです。
ローマ 5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人《ひと》によって罪《つみ》が世《せ》界《かい》に入《はい》り、罪《つみ》によって死《し》が入《はい》り、こうして死《し》が全《ぜん》人《じん》類《るい》に広《ひろ》がったのと同《どう》様《よう》に、‐‐それというのも全《ぜん》人《じん》類《るい》が罪《つみ》を犯《おか》したからです。
ローマ 5:13 というのは、律《りっ》法《ぽう》が与《あた》えられるまでの時《じ》期《き》にも罪《つみ》は世《よ》にあったからです。しかし罪《つみ》は、何《なに》かの律《りっ》法《ぽう》がなければ、認《みと》められないものです。
ローマ 5:14 ところが死《し》は、アダムからモーセまでの間《あいだ》も、アダムの違《い》反《はん》と同《おな》じようには罪《つみ》を犯《おか》さなかった人《ひと》々《びと》をさえ支《し》配《はい》しました。アダムはきたるべき方《かた》のひな型《がた》です。
ローマ 5:15 ただし、恵《めぐ》みには違《い》反《はん》の場《ば》合《あい》とは違《ちが》う点《てん》があります。もしひとりの違《い》反《はん》によって多《おお》くの人《ひと》が死《し》んだとすれば、それにもまして、神《かみ》の恵《めぐ》みとひとりの人《ひと》イエス・キリストの恵《めぐ》みによる賜《たま》物《もの》とは、多《おお》くの人《ひと》々《びと》に満《み》ちあふれるのです。
ローマ 5:16 また、賜《たま》物《もの》には、罪《つみ》を犯《おか》したひとりによる場《ば》合《あい》と違《ちが》った点《てん》があります。さばきの場《ば》合《あい》は、一つの違《い》反《はん》のために罪《つみ》に定《さだ》められたのですが、恵《めぐ》みの場《ば》合《あい》は、多《おお》くの違《い》反《はん》が義《ぎ》と認《みと》められるからです。
ローマ 5:17 もしひとりの違《い》反《はん》により、ひとりによって死《し》が支《し》配《はい》するようになったとすれば、なおさらのこと、恵《めぐ》みと義《ぎ》の賜《たま》物《もの》とを豊《ゆた》かに受《う》けている人《ひと》々《びと》は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支《し》配《はい》するのです。
ローマ 5:18 こういうわけで、ちょうどひとりの違《い》反《はん》によってすべての人《ひと》が罪《つみ》に定《さだ》められたのと同《どう》様《よう》に、ひとりの義《ぎ》の行《こう》為《い》によってすべての人《ひと》が義《ぎ》と認《みと》められ、いのちを与《あた》えられるのです。
ローマ 5:19 すなわち、ちょうどひとりの人《ひと》の不《ふじ》従《ゅう》順《じゅん》によって多《お》く《お》の人《ひと》が罪《つみ》人《びと》とされたのと同《どう》様《よう》に、ひとりの従《じゅう》順《じゅん》によって多《おお》くの人《ひと》が義《ぎ》人《じん》とされるのです。
ローマ 5:20 律《りっ》法《ぽう》が入《はい》って来《き》たのは、違《い》反《はん》が増《ま》し加《くわ》わるためです。しかし、罪《つみ》の増《ま》し加《くわ》わるところには、恵《めぐ》みも満《み》ちあふれました。
ローマ 5:21 それは、罪《つみ》が死《し》によって支《し》配《はい》したように、恵《めぐ》みが、私たちの主《しゅ》イエス・キリストにより、義《ぎ》の賜《たま》物《もの》によって支《し》配《はい》し、永《えい》遠《えん》のいのちを得《え》させるためなのです。

2018年 06月 20日

ローマ 6

ローマ 6:1 それでは、どういうことになりますか。恵《めぐ》みが増《ま》し加《くわ》わるために、私たちは罪《つみ》の中《なか》にとどまるべきでしょうか。
ローマ 6:2 絶《ぜっ》対《たい》にそんなことはありません。罪《つみ》に対《たい》して死《し》んだ私たちが、どうして、なおもその中《なか》に生《い》きていられるでしょう。
ローマ 6:3 それとも、あなたがたは知《し》らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受《う》けた私たちはみな、その死《し》にあずかるバプテスマを受《う》けたのではありませんか。
ローマ 6:4 私たちは、キリストの死《し》にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬《ほうむ》られたのです。それは、キリストが御《み》父《ちち》の栄《えい》光《こう》によって死《し》者《しゃ》の中《なか》からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新《あたら》しい歩《あゆ》みをするためです。
ローマ 6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合《あ》わされて、キリストの死《し》と同《おな》じようになっているのなら、必《かなら》ずキリストの復《ふっ》活《かつ》とも同《おな》じようになるからです。
ローマ 6:6 私たちの古《ふる》い人《ひと》がキリストとともに十《じゅう》字《じ》架《か》につけられたのは、罪《つみ》のからだが滅《ほろ》びて、私たちがもはやこれからは罪《つみ》の奴《ど》隷《れい》でなくなるためであることを、私たちは知《し》っています。
ローマ 6:7 死《し》んでしまった者《もの》は、罪《つみ》から解《かい》放《ほう》されているのです。
ローマ 6:8 もし私たちがキリストとともに死《し》んだのであれば、キリストとともに生《い》きることにもなる、と信《しん》じます。
ローマ 6:9 キリストは死《し》者《しゃ》の中《なか》からよみがえって、もはや死《し》ぬことはなく、死《し》はもはやキリストを支《し》配《はい》しないことを、私たちは知《し》っています。
ローマ 6:10 なぜなら、キリストが死《し》なれたのは、ただ一度《ど》罪《つみ》に対《たい》して死《し》なれたのであり、キリストが生《い》きておられるのは、神《かみ》に対《たい》して生《い》きておられるのだからです。
ローマ 6:11 このように、あなたがたも、自《じ》分《ぶん》は罪《つみ》に対《たい》しては死《し》んだ者《もの》であり、神《かみ》に対《たい》してはキリスト・イエスにあって生《い》きた者《もの》だと、思《おも》いなさい。
ローマ 6:12 ですから、あなたがたの死《し》ぬべきからだを罪《つみ》の支《し》配《はい》にゆだねて、その情《じょう》欲《よく》に従《したが》ってはいけません。
ローマ 6:13 また、あなたがたの手《て》足《あし》を不《ふ》義《ぎ》の器《うつわ》として罪《つみ》にささげてはいけません。むしろ、死《し》者《しゃ》の中《なか》から生《い》かされた者《もの》として、あなたがた自《じ》身《しん》とその手《て》足《あし》を義《ぎ》の器《うつわ》として神《か》に《み》ささげなさい。
ローマ 6:14 というのは、罪《つみ》はあなたがたを支《し》配《はい》することがないからです。なぜなら、あなたがたは律《りっ》法《ぽう》の下《した》にはなく、恵《めぐ》みの下《した》にあるからです。
ローマ 6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律《りっ》法《ぽう》の下《した》にではなく、恵《めぐ》みの下《した》にあるのだから罪《つみ》を犯《おか》そう、ということになるのでしょうか。絶《ぜっ》対《たい》にそんなことはありません。
ローマ 6:16 あなたがたはこのことを知《し》らないのですか。あなたがたが自《じ》分《ぶん》の身《み》をささげて奴《ど》隷《れい》として服《ふく》従《じゅう》すれば、その服《ふく》従《じゅう》する相《あい》手《て》の奴《ど》隷《れい》であって、あるいは罪《つみ》の奴《ど》隷《れい》となって死《し》に至《いた》り、あるいは従《じゅう》順《じゅん》の奴《ど》隷《れい》となって義《ぎ》に至《いた》るのです。
ローマ 6:17 神《かみ》に感《かん》謝《しゃ》すべきことには、あなたがたは、もとは罪《つみ》の奴《ど》隷《れい》でしたが、伝《つた》えられた教《おし》えの規《き》準《じゅん》に心《こころ》から服《ふく》従《じゅう》し、
ローマ 6:18 罪《つみ》から解《かい》放《ほう》されて、義《ぎ》の奴《ど》隷《れい》となったのです。
ローマ 6:19 あなたがたにある肉《にく》の弱《よわ》さのために、私は人《にん》間《げん》的《てき》な言《い》い方《かた》をしています。あなたがたは、以《い》前《ぜん》は自《じ》分《ぶん》の手《て》足《あし》を汚《けが》れと不《ふ》法《ほう》の奴《ど》隷《れい》としてささげて、不《ふ》法《ほう》に進《すす》みましたが、今《いま》は、その手《て》足《あし》を義《ぎ》の奴《ど》隷《れい》としてささげて、聖《せい》潔《けつ》に進《すす》みなさい。
ローマ 6:20 罪《つみ》の奴《ど》隷《れい》であった時《とき》は、あなたがたは義《ぎ》については、自《じ》由《ゆう》にふるまっていました。
ローマ 6:21 その当《とう》時《じ》、今《いま》ではあなたがたが恥《は》じているそのようなものから、何《なに》か良《よ》い実《み》を得《え》たでしょうか。それらのものの行《い》き着《つ》く所《ところ》は死《し》です。
ローマ 6:22 しかし今《いま》は、罪《つみ》から解《かい》放《ほう》されて神《かみ》の奴《ど》隷《れい》となり、聖《せい》潔《けつ》に至《いた》る実《み》を得《え》たのです。その行《い》き着《つ》く所《ところ》は永《えい》遠《えん》のいのちです。
ローマ 6:23 罪《つみ》から来《く》る報《ほう》酬《しゅう》は死《し》です。しかし、神《かみ》の下《くだ》さる賜《たま》物《もの》は、私たちの主《しゅ》キリスト・イエスにある永《えい》遠《えん》のいのちです。

2018年 06月 21日

ローマ 7

ローマ 7:1 それとも、兄《きょう》弟《だい》たち。あなたがたは、律《りっ》法《ぽう》が人《ひと》に対《たい》して権《けん》限《げん》を持《も》つのは、その人《ひと》の生《い》きている期《き》間《かん》だけだ、ということを知《し》らないのですか‐‐私は律《りっ》法《ぽう》を知《し》っている人《ひと》々《びと》に言《い》っているのです。‐‐
ローマ 7:2 夫《おっと》のある女《おんな》は、夫《おっと》が生《い》きている間《あいだ》は、律《りっ》法《ぽう》によって夫《おっと》に結《むす》ばれています。しかし、夫《おっと》が死《し》ねば、夫《おっと》に関《かん》する律《りっ》法《ぽう》から解《かい》放《ほう》されます。
ローマ 7:3 ですから、夫《おっと》が生《い》きている間《あいだ》に他《た》の男《おとこ》に行《い》けば、姦《かん》淫《いん》の女《おんな》と呼《よ》ばれるのですが、夫《おっと》が死《し》ねば、律《りっ》法《ぽう》から解《かい》放《ほう》されており、たとい他《た》の男《おとこ》に行《い》っても、姦《かん》淫《いん》の女《おんな》ではありません。
ローマ 7:4 私の兄《きょう》弟《だい》たちよ。それと同《おな》じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律《りっ》法《ぽう》に対《たい》しては死《し》んでいるのです。それは、あなたがたが他《た》の人《ひと》、すなわち死《し》者《しゃ》の中《なか》からよみがえった方《かた》と結《むす》ばれて、神《かみ》のために実《み》を結《むす》ぶようになるためです。
ローマ 7:5 私たちが肉《にく》にあったときは、律《りっ》法《ぽう》による数《かず》々《かず》の罪《つみ》の欲《よく》情《じょう》が私たちのからだの中《なか》に働《はたら》いていて、死《し》のために実《み》を結《むす》びました。
ローマ 7:6 しかし、今《いま》は、私たちは自《じ》分《ぶん》を捕《と》らえていた律《りっ》法《ぽう》に対《たい》して死《し》んだので、それから解《かい》放《ほう》され、その結《けっ》果《か》、古《ふる》い文《もん》字《じ》にはよらず、新《あたら》しい御《み》霊《たま》によって仕《つか》えているのです。
ローマ 7:7 それでは、どういうことになりますか。律《りっ》法《ぽう》は罪《つみ》なのでしょうか。絶《ぜっ》対《たい》にそんなことはありません。ただ、律《りっ》法《ぽう》によらないでは、私は罪《つみ》を知《し》ることがなかったでしょう。律《りっ》法《ぽう》が、「むさぼってはならない」と言《い》わなかったら、私はむさぼりを知《し》らなかったでしょう。
ローマ 7:8 しかし、罪《つみ》はこの戒《いまし》めによって機《き》会《かい》を捕《と》らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引《ひ》き起《お》こしました。律《りっ》法《ぽう》がなければ、罪《つみ》は死《し》んだものです。
ローマ 7:9 私はかつて律《りっ》法《ぽう》なしに生《い》きていましたが、戒《いまし》めが来《き》たときに、罪《つみ》が生《い》き、私は死《し》にました。
ローマ 7:10 それで私には、いのちに導《みちび》くはずのこの戒《いまし》めが、かえって死《し》に導《みちび》くものであることが、わかりました。
ローマ 7:11 それは、戒《いまし》めによって機《き》会《かい》を捕《と》らえた罪《つみ》が私を《あ》欺《ざむ》き、戒《いまし》めによって私を殺《ころ》したからです。
ローマ 7:12 ですから、律《りっ》法《ぽう》は聖《せい》なるものであり、戒《いまし》めも聖《せい》であり、正《ただ》しく、また良《よ》いものなのです。
ローマ 7:13 では、この良《よ》いものが、私に死《し》をもたらしたのでしょうか。絶《ぜっ》対《たい》にそんなことはありません。それはむしろ、罪《つみ》なのです。罪《つみ》は、この良《よ》いもので私に死《し》をもたらすことによって、罪《つみ》として明《あき》らかにされ、戒《いまし》めによって、極《きょく》度《ど》に罪《つみ》深《ぶか》いものとなりました。
ローマ 7:14 私たちは、律《りっ》法《ぽう》が霊《れい》的《てき》なものであることを知《し》っています。しかし、私は罪《つみ》ある人《にん》間《げん》であり、売《う》られて罪《つみ》の下《した》にある者《もの》です。
ローマ 7:15 私には、自《じ》分《ぶん》のしていることがわかりません。私は自《じ》分《ぶん》がしたいと思《おも》うことをしているのではなく、自《じ》分《ぶん》が憎《にく》むことを行《おこな》っているからです。
ローマ 7:16 もし自《じ》分《ぶん》のしたくないことをしているとすれば、律《りっ》法《ぽう》は良《よ》いものであることを認《みと》めているわけです。
ローマ 7:17 ですから、それを行《おこな》っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住《す》みついている罪《つみ》なのです。
ローマ 7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉《にく》のうちに善《ぜん》が住《す》んでいないのを知《し》っています。私には善《ぜん》をしたいという願《ねが》いがいつもあるのに、それを実《じっ》行《こう》することがないからです。
ローマ 7:19 私は、自《じ》分《ぶん》でしたいと思《おも》う善《ぜん》を行《おこな》わないで、かえって、したくない悪《あく》を行《おこな》っています。
ローマ 7:20 もし私が自《じ》分《ぶん》でしたくないことをしているのであれば、それを行《おこな》っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住《す》む罪《つみ》です。
ローマ 7:21 そういうわけで、私は、善《ぜん》をしたいと願《ねが》っているのですが、その私に悪《あく》が宿《やど》っているという原《げん》理《り》を見《み》いだすのです。
ローマ 7:22 すなわち、私は、内《うち》なる人《ひと》としては、神《かみ》の律《りっ》法《ぽう》を喜《よろこ》んでいるのに、
ローマ 7:23 私のからだの中《なか》には異《こと》なった律《りっ》法《ぽう》があって、それが私の心《こころ》の律《りっ》法《ぽう》に対《たい》して戦《たたか》いをいどみ、私を、からだの中《なか》にある罪《つみ》の律《りっ》法《ぽう》のとりこにしているのを見《み》いだすのです。
ローマ 7:24 私は、ほんとうにみじめな人《にん》間《げん》です。だれがこの死《し》の、からだから、私を救《すく》い出《だ》してくれるのでしょうか。
ローマ 7:25 私たちの主《しゅ》イエス・キリストのゆえに、ただ神《かみ》に感《かん》謝《しゃ》します。ですから、この私は、心《こころ》では神《かみ》の律《りっ》法《ぽう》に仕《つか》え、肉《にく》では罪《つみ》の律《りっ》法《ぽう》に仕《つか》えているのです。

2018年 06月 22日

ローマ 8

ローマ 8:1 こういうわけで、今《いま》は、キリスト・イエスにある者《もの》が罪《つみ》に定《さだ》められることは決《けっ》してありません。
ローマ 8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御《み》霊《たま》の原《げん》理《り》が、罪《つみ》と死《し》の原《げん》理《り》から、あなたを解《かい》放《ほう》したからです。
ローマ 8:3 肉《にく》によって無《む》力《りょく》になったため、律《りっ》法《ぽう》にはできなくなっていることを、神《かみ》はしてくださいました。神《かみ》はご自《じ》分《ぶん》の御《み》子《こ》を、罪《つみ》のために、罪《つみ》深《ぶか》い肉《にく》と同《おな》じような形《かたち》でお遣《つか》わしになり、肉《にく》において罪《つみ》を処《しょ》罰《ばつ》されたのです。
ローマ 8:4 それは、肉《にく》に従《したが》って歩《あゆ》まず、御《み》霊《たま》に従《したが》って歩《あゆ》む私たちの中《なか》に、律《りっ》法《ぽう》の要《よう》求《きゅう》が全《まっと》うされるためなのです。
ローマ 8:5 肉《にく》に従《したが》う者《もの》は肉《にく》的《てき》なことをもっぱら考《かんが》えますが、御《み》霊《たま》に従《したが》う者《もの》は御《み》霊《たま》に属《ぞく》することをひたすら考《かんが》えます。
ローマ 8:6 肉《にく》の思《おも》いは死《し》であり、御《み》霊《たま》による思《おも》いは、いのちと平《へい》安《あん》です。
ローマ 8:7 というのは、肉《にく》の思《おも》いは神《かみ》に対《たい》して反《はん》抗《こう》するものだからです。それは神《かみ》の律《りっ》法《ぽう》に服《ふく》従《じゅう》しません。いや、服《ふく》従《じゅう》できないのです。
ローマ 8:8 肉《にく》にある者《もの》は神《かみ》を喜《よろこ》ばせることができません。
ローマ 8:9 けれども、もし神《かみ》の御《み》霊《たま》があなたがたのうちに住《す》んでおられるなら、あなたがたは肉《にく》の中《なか》にではなく、御《み》霊《たま》の中《なか》にいるのです。キリストの御《み》霊《たま》を持《も》たない人《ひと》は、キリストのものではありません。
ローマ 8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪《つみ》のゆえに死《し》んでいても、霊《れい》が、義《ぎ》のゆえに生《い》きています。
ローマ 8:11 もしイエスを死《し》者《しゃ》の中《なか》からよみがえらせた方《かた》の御《み》霊《たま》が、あなたがたのうちに住《す》んでおられるなら、キリスト・イエスを死《し》者《しゃ》の中《なか》からよみがえらせた方《かた》は、あなたがたのうちに住《す》んでおられる御《み》霊《たま》によって、あなたがたの死《し》ぬべきからだをも生《い》かしてくださるのです。
ローマ 8:12 ですから、兄《きょう》弟《だい》たち。私たちは、肉《にく》に従《したが》って歩《あゆ》む責《せき》任《にん》を、肉《にく》に対《たい》して負《お》ってはいません。
ローマ 8:13 もし肉《にく》に従《したが》って生《い》きるなら、あなたがたは死《し》ぬのです。しかし、もし御《み》霊《たま》によって、からだの行《おこな》いを殺《ころ》すなら、あなたがたは生《い》きるのです。
ローマ 8:14 神《かみ》の御《み》霊《たま》に導《みちび》かれる人《ひと》は、だれでも神《かみ》の子《こ》どもです。
ローマ 8:15 あなたがたは、人《ひと》を再《ふたた》び恐《きょう》怖《ふ》に陥《おとしい》れるような、奴《ど》隷《れい》の霊《れい》を受《う》けたのではなく、子《こ》としてくださる御《み》霊《たま》を受《う》けたのです。私たちは御《み》霊《たま》によって、「アバ、父《ちち》」と呼《よ》びます。
ローマ 8:16 私たちが神《かみ》の子《こ》どもであることは、御《み》霊《たま》ご自《じ》身《しん》が、私たちの霊《れい》とともに、あかししてくださいます。
ローマ 8:17 もし子《こ》どもであるなら、相《そう》続《ぞく》人《にん》でもあります。私たちがキリストと、栄《えい》光《こう》をともに受《う》けるために苦《く》難《なん》をともにしているなら、私たちは神《かみ》の相《そう》続《ぞく》人《にん》であり、キリストとの共《きょう》同《どう》相《そう》続《ぞく》人《にん》であります。
ローマ 8:18 今《いま》の時《とき》のいろいろの苦《くる》しみは、将《しょう》来《らい》私たちに啓《けい》示《じ》されようとしている栄《えい》光《こう》に比《くら》べれば、取《と》るに足《た》りないものと私は考《かんが》えます。
ローマ 8:19 被《ひ》造《ぞう》物《ぶつ》も、切《せつ》実《じつ》な思《おも》いで神《かみ》の子《こ》どもたちの現《あらわ》れを待《ま》ち望《のぞ》んでいるのです。
ローマ 8:20 それは、被《ひ》造《ぞう》物《ぶつ》が虚《きょ》無《む》に服《ふく》したのが自《じ》分《ぶん》の意《い》志《し》ではなく、服《ふく》従《じゅう》させた方《かた》によるのであって、望《のぞ》みがあるからです。
ローマ 8:21 被《ひ》造《ぞう》物《ぶつ》自《じ》体《たい》も、滅《ほろ》びの束《そく》縛《ばく》から解《かい》放《ほう》され、神《かみ》の子《こ》どもたちの栄《えい》光《こう》の自《じ》由《ゆう》の中《なか》に入《い》れられます。
ローマ 8:22 私たちは、被《ひ》造《ぞう》物《ぶつ》全《ぜん》体《たい》が今《いま》に至《いた》るまで、ともにうめきともに産《う》みの苦《くる》しみをしていることを知《し》っています。
ローマ 8:23 そればかりでなく、御《み》霊《たま》の初《はつ》穂《ほ》をいただいている私たち自《じ》身《しん》も、心《こころ》の中《なか》でうめきながら、子《こ》にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖《あがな》われることを待《ま》ち望《のぞ》んでいます。
ローマ 8:24 私たちは、この望《のぞ》みによって救《すく》われているのです。目《め》に見《み》える望《のぞ》みは、望《のぞ》みではありません。だれでも目《め》で見《み》ていることを、どうしてさらに望《のぞ》むでしょう。
ローマ 8:25 もしまだ見《み》ていないものを望《のぞ》んでいるのなら、私たちは、忍《にん》耐《たい》をもって熱《ねっ》心《しん》に待《ま》ちます。
ローマ 8:26 御《み》霊《たま》も同《おな》じようにして、弱《よわ》い私たちを助《たす》けてくださいます。私たちは、どのように祈《いの》ったらよいかわからないのですが、御《み》霊《たま》ご自《じ》身《しん》が、言《い》いようもない深《ふか》いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
ローマ 8:27 人《にん》間《げん》の心《こころ》を探《さぐ》り窮《きわ》める方《かた》は、御《み》霊《たま》の思《おも》いが何《なに》かをよく知《し》っておられます。なぜなら、御《み》霊《たま》は、神《かみ》のみこころに従《したが》って、聖《せい》徒《と》のためにとりなしをしてくださるからです。
ローマ 8:28 神《かみ》を愛《あい》する人《ひと》々《びと》、すなわち、神《かみ》のご計《けい》画《かく》に従《したが》って召《め》された人《ひと》々《びと》のためには、神《かみ》がすべてのことを働《はたら》かせて益《えき》としてくださることを、私たちは知《し》っています。
ローマ 8:29 なぜなら、神《かみ》は、あらかじめ知《し》っておられる人《ひと》々《びと》を、御《み》子《こ》のかたちと同《おな》じ姿《すがた》にあらかじめ定《さだ》められたからです。それは、御《み》子《こ》が多《おお》くの兄《きょう》弟《だい》たちの中《なか》で長《ちょう》子《し》となられるためです。
ローマ 8:30 神《かみ》はあらかじめ定《さだ》めた人《ひと》々《びと》をさらに召《め》し、召《め》した人《ひと》々《びと》をさらに義《ぎ》と認《みと》め、義《ぎ》と認《みと》めた人《ひと》々《びと》にはさらに栄《えい》光《こう》をお与《あた》えになりました。
ローマ 8:31 では、これらのことからどう言《い》えるでしょう。神《かみ》が私たちの味《み》方《かた》であるなら、だれが私たちに敵《てき》対《たい》できるでしょう。
ローマ 8:32 私たちすべてのために、ご自《じ》分《ぶん》の御《み》子《こ》をさえ惜《お》しまずに死《し》に渡《わた》された方《かた》が、どうして、御《み》子《こ》といっしょにすべてのものを、私たちに恵《めぐ》んでくださらないことがありましょう。
ローマ 8:33 神《かみ》に選《えら》ばれた人《ひと》々《びと》を訴《うった》えるのはだれですか。神《かみ》が義《ぎ》と認《みと》めてくださるのです。
ローマ 8:34 罪《つみ》に定《さだ》めようとするのはだれですか。死《し》んでくださった方《かた》、いや、よみがえられた方《かた》であるキリスト・イエスが、神《かみ》の右《みぎ》の座《ざ》に着《つ》き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
ローマ 8:35 私たちをキリストの愛《あい》から引《ひ》き離《はな》すのはだれですか。患《かん》難《なん》ですか、苦《くる》しみですか、迫《はく》害《がい》ですか、飢《う》えですか、裸《はだか》ですか、危《き》険《けん》ですか、剣《つるぎ》ですか。
ローマ 8:36 「あなたのために、私たちは一日《にち》中《じゅう》、死《し》に定《さだ》められている。私たちは、ほふられる羊《ひつじ》とみなされた。」と書《か》いてあるとおりです。
ローマ 8:37 しかし、私たちは、私たちを愛《あい》してくださった方《かた》によって、これらすべてのことの中《なか》にあっても、圧《あっ》倒《とう》的《てき》な勝《しょう》利《り》者《しゃ》となるのです。
ローマ 8:38 私はこう確《かく》信《しん》しています。死《し》も、いのちも、御《み》使《つか》いも、権《けん》威《い》ある者《もの》も、今《いま》あるものも、後《のち》に来《く》るものも、力《ちから》ある者《もの》も、
ローマ 8:39 高《たか》さも、深《ふか》さも、そのほかのどんな被《ひ》造《ぞう》物《ぶつ》も、私たちの主《しゅ》キリスト・イエスにある神《かみ》の愛《あい》から、私たちを引《ひ》き離《はな》すことはできません。